康政の死後、家督は三男の康勝が継いだが、康勝は大坂夏の陣後、26歳の若さで継嗣無くして死去した。このため、榊原氏は断絶の危機に立たされたが、幕府は康政の功績を評価して、長男・大須賀忠政の長男で康政の孫・榊原忠次に後を継ぐことを許している。後に忠次は播磨姫路藩15万石に栄転した。
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兄・清政の家系は1,800石の徳川幕府の旗本となり、駿河国久能山東照宮の門番となった。
江戸時代中期の榊原氏の藩主・榊原政岑は徳川宗春の同志として、江戸の公認売春地区であった吉原に通い詰め、女郎を身請けして、派手を好んでいた。この所業は、倹約令を出していた将軍・徳川吉宗の逆鱗に触れ、榊原家の危機となったときに、家康が康政に下していた神誓証文を、幕府に差し出し嘆願したところ、表高は同じ15万石で、越後高田藩に懲罰的移封処分という軽いお咎めで済んだという効果があった。
徳川四天王・十六神将に数えられ、現在も家康覇業の功臣として顕彰されている。
隊旗には「無」の一字を配した。
本多忠勝とは同年齢であったことから仲が良く、親友関係にあったという。また、酒井忠尚に仕えていた頃からの同僚である大須賀康高の娘を妻とした。
死去する際、家康の武功派に対する冷遇振りに対して不満を抱いていたことから、家康が派遣した見舞いの使者に対して、「わしは腸が腐って死ぬと大御所(家康)様に申し上げろ」と言い捨てたとされている。
秀吉の死後、家康の命令で徳川軍を率いて近江の瀬田まで進軍した。これは示威行動であるが、実際の兵力は3000人ほどだった。ところが康政は瀬田に関所を設けて人留めを行なうことで、諸大名に大軍を率いているように見せつけさせたとされている。
家康は関ヶ原の後、康政を秀忠付の老中に任命しようとしたが、康政は「老臣が権を得るのは亡国の兆しである」として拒絶したという(ただし一説に、本多正信の妨害があったためともされる)。